宇宙、そこは最後のフロンティア

自分が感じている事を、雑多に気ままに書き連ねる、お気軽ブログです。ブログタイトルは大好きなスタートレックからの引用で、内容とは何の関係もありません。

科学的とは、どういう事か?

自分は昔から科学が大好きで、逆に非科学的なことを、平気でベラベラ話しているいる人間を見ると、イライラしてしまうタイプの人間だった。

 

では、「科学的」とはどう言う事なのか?

 

とある教授は「再現性」と「因果関係」がしっかりしている事だと言っていた。確かに、それもそうなのかもしれない。

そもそも「科学的」の定義は、一つには定まらないだろうし、科学的と非科学的の境界線自体、明確に示せるものではないだろうと思う。

しかし、その上で、自分の中で一番しっくりくる答えがある。それが、「科学(的)とは、反証可能なもの」と言うもの。

 

科学と相反する存在として、宗教がよく上げられるけど、例えば、進化論を否定するキリスト教原理主義者に、化石その他の進化論の証拠を突き付けると、こんな反論をしてくる。

「その化石自体が、神様がお作りになられたものなのです。」

 

いやはや、こんな事を言いだされたら、もう何でもありの世界で、反証は絶対に不可能だろう。だから、こう言うものは非科学的と言うことになる。

 

一方、科学的なものは、反例を一つでも示せば、それで反証は終わり。

どんな理論であっても、その反例を示し、その観測結果が確定出来れば、その理論は誤りであったとあっさりと認めるのが科学と言うものだ。

 

例えば、ニュートン力学は今でも、物理学の土台となる存在である事には変わりはないが、1900年代初頭から、だんだんとミクロの世界等々、人間が日常で体験する事のない環境下では、成り立たない事が分かってきた。これは当時の物理学者とっては、衝撃的な事だった。

当時、物理学は、もはや完成された学問だと言うのが、物理学者の一般的な認識だった。ニュートン力学を中心とした所謂、古典物理学(当時はもちろん古典物理なんて言葉はないが)において、残された謎は殆どなく、あとは精度を高めていくだけと言った空気感だった。

ところがその後、古典物理では説明できない現象(黒体輻射など)の発見をきっかけに量子力学や、あるいは相対性理論などの、所謂、現代物理学が発展して、それまでの物理学の常識を、根底からひっくり返す形で、急激に発展していった。

そこで導かれる結論は、それまでの物理学はおろか、人間の常識的感覚とも大きく異なり、ある意味で「信じがたい」ものであった。

しかし、論理として筋が通っており、何より、観測結果もその通りになる訳だから、事実と認めざるを得ない。

少し話がずれたが、何を言いたいかと言うと、反例があれば、これまで完全に確立されてきた理論すらも、修正を加えていくのが科学(的)と言う事だ。

オカルトの信者が、よく「科学者は頭が固い。」なんて言い方をするけど、自分に言わせれば大間違い。

反例一つあれば、あっさりと間違いを修正出来るのが、科学者と言うものだ。寧ろ、どんなに反例を突き付けれても、頑なに間違いを認めないのが、オカルト信者だろう。上記の進化論の否定論法が良い例だが。

小林よしのりのコロナ論、殆ど同感にも関わらず、感じる違和感

ずっと、コロナ禍は騒ぎすぎと主張している自分だけど、同様の主張をしている言論人の中で、恐らく最も声が大きいのが小林よしのりではないかと思う。
だけど、自分は小林よしのりのコロナ論には、どうも違和感を感じる部分が多い。

コロナ禍はインフォデミックであるとか、インフルエンザとの比較論とかは、殆ど同感なんだけど、例えば死生観に関する部分だとかは違和感を感じる事が多いし、所謂、確証バイアスに陥っていると感じる議論も多い(確証バイアスとは、自身の主張に都合の良い情報だけを無意識に集めてしまう心理現象のこと)。

また、マスクについても、確かにその感染予防効果は限定的であると思うけど、だからと言ってゼロではない訳で、特効薬等がない現状では、せめてもの気遣いとして、マスクをしておこうと言うのは、ごく自然な発想であると感じる。時短要請等のように、経済を犠牲にする訳でもない。にも関わらず、皆がマスクをしている現状そのものを批判的に語る事は、あまり理解出来ない。

その他にも違和感を感じる部分は、色々とあるのだが、今回、それが決定的になる事があった。

それは、一部の医者や議員などが、本日(2021年6月24日)開いた「新型コロナワクチン接種中止を求める嘆願書」提出に伴う記者会見を、自らのHPで積極的に、(どちらかと言えば、肯定的な色合いで)紹介している事。
(厳密には、小林よしのり本人ではなく、彼のアシスタント的な人物が、積極的に取り上げているのだが、小林よしのりのHPで、彼が認める形で紹介されているのだから、同じ事でしょう。)

確かに、今回のコロナワクチンは、従来の主だったワクチンとは製法等が異なるし、接種後の死亡例もインフルエンザワクチンと比べるとかなり多い事は、事実ではある。
だから、経過観察等は、これからも必要な段階だと思うし、打ちたくないと思う人が同調圧力で打たざるを得なくなるような、「接種が正義」みたいな空気感が醸成されることは自分も反対ではある。

とは言え、過剰にワクチンの危険性も煽る事も、当然ながらあってはならないでしょう。

では、今回の会見や嘆願書の内容は、どのようなものだったのか?あるいは、その主催者たちはどのような自分で、普段どのような主張をしているのか?

自分は医学に明るい訳ではないし、その内容一つ一つに、科学的に反論を加えるられる訳ではない。ただ、この嘆願書の発起人や、会見の主だった人物を調べてみて、驚いた。。

例えば、発起人の高橋徳氏。彼が院長を務めるクリニックのHPを見てみると、これが凄い。波動医学だの何だの、あからさまにトンデモ医学ではないかと思われる記述が堂々と掲載されている。

会見の主要人物の一人である中村篤史氏のブログも凄い。。コロナワクチンを打ったものは、全員2,3年で死亡すると言った主張が紹介されており、最終的な中村氏本人の結論は、それとは若干異なるものではあるものの、基本的にはそうした主張を肯定的なトーンで扱っている。

いやはや、二人ともトンデモ臭がプンプンとするのだが・・・。もちろんだからと言って、彼らの主張を全て間違いだと決めつけるのは科学的な態度ではないけれど、かなり警戒心を持って捉えるべきなのは、当然でしょう。


ちなみに、小林よしのりは、上記自分のHPで、今回の会見の主催者の事は、自分は何も知らないと言い放っていた。おいおい、それはいくら何でも無責任すぎるだろ。

彼は、コロナへの不安を過剰に煽る側の医師ばかりを、さしたる科学的根拠もなくメディアが取り上げる事に批判的だけど(そして、それは自分も同感だけど)、今、自分がやっている事は、それと同じだとは思わないんだろうか?
僕は、そういうダブルスタンダードが非常に嫌いである。

 

コロナ禍の捉え方の違いの背景にあるもの

コロナ禍は騒ぎすぎだと、このブログやTwitterで、しつこいくらいに主張している自分だけど、その一方で、事実と正しいデータに基づいた判断なら、その上で異なる考え方をする人がいても、公序良俗に反するものでない限り、否定すべきでないのが当然だとも考えている。

だけど、コロナ禍に関する事については、単に考え方の違いと言うに留まらず、事実として、(飲食店や旅行業に限らず)凄まじい数の人々に、人生を狂わせるレベルの被害を与えている訳で、どうしても、色々と言いたくなってしまう部分があるんよね。

日本におけるコロナ禍は、本当にそれだけの事が正当化出来るだけの緊急事態なのか?って。

以下は、自分の主観で、ちゃんとデータを取った話ではないけど、こう言う事をやむを得ないと考えている人って、所謂「優秀で、仕事が出来て、エリートで、どちらかと言えばホワイトな職場にいて、高給取りで、コロナ禍は自身の給与には何の影響もない。」みたいな人が多い気がする。
(それとは別に、何も考えてなくて、雰囲気だけで、しょうがないんじゃない?って考えてる人もいると思うけど、、数としてはこっちの方が多そう)

では何故、「出来る人」は、そう考えがちなのか?

「自分自身には、コロナ禍の経済的影響がなく、変わらず豊かな生活をしてるから、苦しんでいる人に対する想像力が足りないんだよ。」とか言う人がいたりするけど、自分はちょっと違うと思うんだよなあ。

経済的に苦しんでる状況への想像力はあっても、自身に人並み以上の能力があるがゆえに、自分ならこの状況でも成功出来る、あるいは、失敗したところでいくらでもやり直せる自信があり、故に経済的に被害受ける人がいても、それは自己責任と考える傾向が強いように感じる。
また、やり直せば良いだけでしょ、みたいな。
けどね、世の中、そこまでの能力がある人なんて、全体から見たら、ごく一部。

コロナ禍により、一度狂わされたら人生は、その後、ずっと影を落とすかもしれない。

それすらも、その人の能力不足であり、自己責任なんだろうか?
確かに、一部の能力のある人なら、外部環境のせいで仕事を潰されても、何度も乗り越える事が出来るのかもしれない。
だったらやっぱり、乗り越えられないのは、その人の能力の問題で、自己責任じゃん!と言うのも、理屈としては成り立つ。

だけど、自分は、そう言う社会は嫌だなあ、、と思う次第である。

世の中は8割以上は凡人。上記の文脈の中で言えば、無能側の人間なのよ。(自分も含めてね)
そう言う人々に、過剰に自己責任を求める社会が、自分は健全なものだとは思えない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

宝くじと期待値、そして価値観

数学の確率の分野に期待値と言う考え方がある。簡単に言えば、例えば、宝くじを仮に全パターン買った際の1枚辺りの平均当選金額が期待値だ。

数学の問題では、「この宝くじを買うのは得か損か?」と言う問がよく出題される。要するに、宝くじの値段が期待値より安ければ得、高ければ損と言う訳だ。

しかし、自分はこの問題が、気に入らなかった。期待値はあくまで平均の話しであって、損する人もいれば、得する人もいる。

一般的な宝くじの場合、圧倒的多数は確かに損をするし、全体を平均すれば損をする事は間違いないけど、ごく一部の人が凄まじく得をする。
これを損と見るか得と見るかは価値観の問題であって、数学の範疇ではない。

だいたい、宝くじの値段が期待値より高いのは、商売である以上、当たり前の話しで、そうでない宝くじなんて基本的には存在しない。
数学の問題にするなら、この宝くじ販売で利益を得るには一枚の値段をいくら以上にすべきか?とかが妥当でしょう。

ちなみに自分は毎月3000円程度を宝くじに費やしている。基本、捨てるつもりで。
毎月、3000円を失っても、別にそれで生活レベルが落ちると言う事はない。
>毎月、3000円捨てる事で、ほんのほんの僅かでも、実力では到底得られないであろう、そして生活レベルどころか、人生すら変わるレベルの、億単位のお金が手に入る可能性を得られるのなら、それは自分にとっては「得」なのです。

ひろゆきが、宝くじを買うような人間は、自分は中学レベルの数学も理解していませんと言っているようなものと言っていたけど、全く納得出来ない。

まあ、ひろゆきみたいに元から億単位の収入とかがありそうな人の場合、宝くじが当たったところで、人生変わるわけでもないだろうから、魅力を感じないのは理解できるけど。

宝くじを買うことを、夢を買うとは、よく言ったものだと思う。そう、宝くじは庶民にとっての夢だ。

職域接種と同調圧力

最近、新型コロナウイルスワクチンの職域接種絡みのニュースを、よく見聞きする。基本的には、職域接種を実施する企業・団体に好意的で、さらに奨励、推進していこうと言う方向性の報道が殆どだと思う。だけど自分は、これに若干の違和感を感じずにはいられない。
 
ワクチンを打たないと言う選択をする人を、非難したり、差別したりしてはいけないと言う事には、圧倒的多数の人が同意してくれると思うけど、現実には同調圧力と言うものが、どうしても存在する。日本人は一般的に、特に同調圧力が強い民族だと言われているけど、国あるいは地方自治体のような圧倒的に規模の大きい集団と比べた時、一企業・団体程度の規模内では、同調圧力はさらに高まるのではないだろうか。
 
最近だと客室乗務員とか、某学習塾が職域接種を実施すると言うニュースを耳にしたけど、果たして、その中で「自分は打ちたくありません。」と考えている人は、その意思を尊重され、なおかつ差別的な扱いを受けたり、そこまでいかなくとも白い目で見られたりする・・と言う事にはなってはいないのだろうか?
 
いずれにせよ、職場で多数の人が接種をしていく中、自分は打ちませんと言う意思を通すのは、なかなかの勇気がいる事なのではないか?自分には、それが社会として健全な状態だとは、どうしても思えない。
 
自分は別に、コロナワクチンは危険だと騒ぎ立て訳では全然ない。
 
コロナに限らず、ワクチン一般を危険で打つべきでないとする(一部で根強くある)反ワクチン論は、完全なトンデモ科学だし、コロナワクチンについては、まだ状況の推移の注視すべき部分はあるとは思うけど、現時点でのデータを見る限りでは、必要以上に危険を煽るべきものではないと思う。(ここら辺のデータは、下に記載しておきます。※1)
 
自分が言いたいのは、単に、人の自由意思を制限する(同調圧力等によって、実質制限されている状態を作り出す事も含めて)事には、極めて慎重であるべきであって、日本のコロナによる被害状況は、それをも是認する程のものではないと言う事だけだ。
 
だから、時短制限、酒類提供制限、客数制限等々、、、これらを当然のように受け入れてしまっている社会に、自分は違和感しかない。皆、ここら辺の感覚がマヒしすぎではないだろうか・・。
特に、国家がこういったものに制限を加える事に、リベラルと呼ばれる人々こそが、反対すべきだと思うのだが、その真逆になっている事には、物凄く失望してしまう。
 
 
>話が政治的になってしまうけど、自分は共産、社民、ここ最近の立憲民主みたいな、「クソしょーもない左派」でなくて、「真っ当なリベラル」と呼べるような勢力が育つ事が、日本には必要だと思っている。だからこそ、現状の私権制限に何の疑問も持たない、一部自称リベラルの言論人なんで、2度と信用したくないくらいに思ってしまう。
(東浩紀とか三浦瑠璃あたりは、そこらへん凄く真っ当だなと思う。)
 
それにしても、こんな状況はいつまで続くんだろうか?海外では、ワクチン接種が進んで、客数制限もマスク義務も撤廃されて、普通の生活が戻ってきてるなんてニュースも見るけど、このままいくと、日本ではワクチンが普及しても、当面ずっと、こんなことを続けるのではないかと言う懸念が僕にはある。そうなると、問題はワクチンの遅れではなく、日本人のメンタリティーとメディアの在り方にあると思えてならない。
 
※1
コロナワクチン接種直後に死亡したと言う方が、日本では今のところ196人いるらしい。
さて、話題になった書籍、ファクトフルネスでも触れられているけど、数字はそれ単独で観てはダメ。割合を見たり、変化の推移を見たり、他のデータと比較したりしないと、本当の姿は見えてこない。
そもそも、死亡とワクチン接種の間に因果関係があるのかを、まずはっきりさせなければいけないけど、それはここでは一先ず置いておく。
 
まず割合だけど、この196人と言う数値は、ワクチン接種者7万2000人に1人と言う事だそうだ。百分率で言うと、約0.0014%。これをどう見るか、人によって判断は分かれるところだろうが、インフルエンザワクチンの場合で言うと、2019年のデータで接種後の死亡率0.000009%らしい。ただし、これは総接種【回数】に対する数値のようなので、接種人数に対してでみると、恐らく0.000015%とか、そういったところではないかと思われる。650万人に1人と言ったところか・・・。
 
コロナワクチンの接種後データは、まだ、サンプル数も少ないし、これだけで比較するのは危険だとは思うけど、とりあえず、この数値を基にすれば、コロナワクチン接種後の死亡例は、インフルワクチン100倍近くある事にはなる。まあ、怖いと思う人がいても理解は出来る。
 
 
ただ、ここからは、さらに議論が乱暴になる事を自覚した上で、あえて記載すると、コロナによる死亡者が、間接死含めて、年間1万人程度である事を考えた時、日本人の約1万人に1人となる。死亡者は高齢者が圧倒的に多いはずだから、高齢者内での数値は、数千人に1人だとか、もっと大きな割合になる事は想像に難くない。
 
そうなると、確かにインフルエンザワクチンと比べると危険度は高くても、7万2000人に1人なのであれば、打たないで感染し、結果死亡してしまうリスクと比べれば、大分小さいのではないかと言う見方も出来なくはない。
 
いずれにせよ、上記の数値を見ての、自分の率直な意見は、安全性について、今後も注視をし、データを取り続けるべき段階にはあるものの、別段騒ぎてて、不安を煽るべ程の数値でもないと言ったところ。
ただし、その一方で、上記の自由意思の問題は別にして、純粋に数値データだけで判断したとしても、社会全体で接種こそが正義と言いきれる程のものでもないかなと思う。
もちろん、接種が進んだ方が、結果的に国家全体としては、犠牲者数は少なくはなるだろうけど。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

このコロナ騒ぎ、いい加減にして欲しい。

Twitterとかでは、何ども言っているけど、自分は、このコロナ禍は、あまりにも騒ぎすぎ、酷すぎだと思っている。
その根拠は、一言で言えば、「例年のインフルエンザと比べてみてよ。」と言う事。
 
「ワクチンが普及していて、特効薬もあるインフルエンザと一緒にするな。」と言う考えの人もいるとは思う。
そこら辺の意見については、あとで触れたいと思う。
 
とりあえず、インフルエンザの基本データに、まず触れておきたい。
インフルエンザは、毎年、約1000万人が感染し、3000人が直接死し、10000人が間接死していた。
 
対する新型コロナの方は、国内で、市中感染が広がり始めたと思われる、この16カ月弱で、感染者数80万人弱、間接死14000人と言ったところ。
 
間接死14000人の内、何人が直接死なのかは、データをあさってみたけど、信頼を置けるものが見当たらなかった。なので、直接死については、ここでは触れない事にする。
 
とりあえず、インフルが1年1万人に対して、コロナは約16カ月で1万4千人の犠牲者だから、ここについては、ほぼ同等のレベルと見て良いと思う。
(ただ、感染者数は、インフル1000万に対して、新型コロナ80万なので、致死率はコロナの方が遥かに高い事になる。コロナの感染者数は、実際にはもっと多いだろうから、この数値から、単純比較してしまうのは、やや危険ではあるが、これについては、一定の考慮をすべきデータだろうとは思う。)
 
またインフルは、インフルエンザ脳症などで、若い人や子供でも亡くなる事があるが、新型コロナは、そう言った事は極めて少ない。特に、子どもについては国内の犠牲者は未だにゼロ。
 
 
さて、こうした事を踏まえた時、飲食店や旅行業界、エンタメ業界等々を廃業にまで追い込み、景気を著しく悪化させ、失業者を増やし、失業までいかなくとも、経済的に困窮する人を増やす・・、そう言った政策が、バランス感覚として、本当に真っ当なのだろうか?僕が言いたいのは、結局のところ、そこだけだ。
 
この意見に対する反論としては、多分、以下のようなものが考えられるんだろうと思う。それに対する自分の考えを、一つ一つ述べてみたいと思う。
 
①「経済やお金より命の方が大事だろ!」系
これだけ読めば、反論の余地がない意見のように見える。だけど、敢えて言えば、この手の意見が一番幼稚で何も考えていないと思う。
上記の通り、インフルエンザだって、毎年10000人の方がなくなっていた。
だとすると、「経済より命だろ!」と言う理屈で言うなら、コロナ以前もそうだし、今後も、ず~っと、今のような対策を続けるべきと言う事になる。
(少なくとも冬場は。冬期五輪なんて、永久的に出来ないのではないか)
 
自動車事故で、毎年3000人近くがなくなっている事については、どう考える?自動車を廃止すれば、この数値は限りなくゼロに近づくと思うけど、そうするべきなの?
 
結局、ここら辺もバランスの問題で、もし日本におけるコロナの犠牲者数が、欧米のレベルだったら、自分も一定程度の経済抑制策には、賛成していたと思う。
だけど、インフルエンザと同程度の犠牲者レベルなのに、社会全体に、ここまでの犠牲を強いるのは、(それはつまり、個々の人の人生を犠牲にしていると言う事)どう考えてもバランス感覚がおかしいと思う。
たまに「お前は、それをコロナ犠牲者の遺族の前で言えるのか!?」とか言う人がいるけど、ここまで来るともう反論する気も失せるけど、「だったらあなたはインフル犠牲者の遺族の前や、自動車事故の犠牲者遺族の前では、どう振舞うんですか?」「それともインフルでも、同様の対策を取り、自動車も廃止すべきだと思いますか?」とだけ言っておく。
 
 
②「ワクチンが行き届いていなかったり、特効薬がないコロナをインフルと一緒にするな」系
これについては、自分も一定の考慮、配慮はすべきことだと思う。
ワクチンや特効薬があると言う事は、「とにかく感染をしない。」と言う事だけでなく、仮に感染した場合でも、重症化したり、亡くなってしまうリスクを、自らの意志で低くする手段がある事を意味する。
現状、その手段がない(少なくともインフルよりは少ない)コロナでは、それなりの対策を取り、配慮をすべきだとは思う。
 
結局、「では、どの程度が、適切なレベルの対策、配慮なのか?」と言う事になる訳だけど、これについては、マスク、手洗い、消毒、あるいは体調不良時については極力人と会うのを避ける・・・程度の、個人の権利や経済を犠牲にしないレベルでの(以前からあった、至極常識レベルの対感染策で)十分だと、自分は思う。
 
繰り返しになるけど、現状の感染状況、被害状況で、多くの人を経済的困窮に追い込むようなやり方が、バランス感覚として、真っ当だとは、どうしても思えない。
 
Twitterのフォロワーさんの一人が、「インフルとコロナを一緒にすべきでない」と言う根拠の一つとして、タミフルリレンザを服用した人数と、その中での犠牲者数のデータをつぶやかれていた。
それがなかなか衝撃的で、具体的な数値は、既につぶやきが削除されているので分からないのだが、年間、数十万人が服用をしている中で、その中で亡くなった方は、ほんの数人!!と言うもの。
これが事実なら、確かに、考慮に入れるべきデータだろうと思う。
なので、自分でも調べてみたのだけど、どうも該当のデータが見当たらない・・・。
ただ、正直なところ、にわかには信じがたいデータではある。上記データが直接死のみを対象にしてるのか、間接死も対象に入れているのか不明だけど、直接死だけでも3000人いる訳で、じゃあ、その内の殆ど全員は、タミフルリレンザを服用しておらず、もし服用していれば、殆ど全ての人は、助かったと言う事なのだろうか?
明確なデータと根拠もなしに否定すべきではなかろうけど、いくらなんでもあり得ないのではないか・と言うのが率直な感想ではある、、、。
ちなみに、少なくとも言えるのは、インフルエンザ特効薬は、少なくとも発症後2日以内には服用しないと、効果は、ほぼ見込めないと言うこと。それも当然の話で、そもそも人類は、ウイルスを直接「殺す」薬を、未だに開発出来ていない。あくまで増殖を妨げるだけ。したがって、増殖が進んでからの服用では効果がない訳だ。
おそらく、上記のデータは、基礎疾患もなく、発症後2日間以内に薬を服用する等々、かなり理想的な状況においてのデータだったのではないかと言う気がする。この辺のところ、詳しい方がいたら教えて欲しい。
いずれにせよ、最終的な死亡者数がインフルと同程度である以上、多くの人の人生に影響を及ぼすような対策はやりすぎだと言うだと、自分は思う。
 
 
③「事実、医療現場が逼迫しているのだから、少々の犠牲を伴ってでも、対策を取るのは当たり前」系
確かに、医療崩壊、逼迫は大問題だと思う。それに反対する人は、おそらく殆どいないでしょう。では、現状、日本の医療現場が逼迫している原因はどこにあるのか?
「新型コロナが恐ろしい病気だから?」「感染者数が物凄く多いから?」それはデータを見る限り、どう考えても、違うと思う。
 
何度も言うように、インフルエンザでは毎年1000万人が感染し、10000人亡くなっている。それでも医療現場はビクともしなかった。
そもそも、日本の人口当たりの病床数は世界一である一方で、コロナの感染状況は、欧米と比べたら、感染者も犠牲者も、文字通り、ケタ違いに少なかった。
しかも、今シーズン、インフルエンザの患者は圧倒的に少なく、その影響で、感染症等による日本の死亡者数全体は、実は一昨年よりも少なかった。
 
それで医療崩壊を起こすだなんて、おかしいと考えるのは、ごく自然な当然の発想だろうと思う。
結局、これは、コロナを指定感染症とし続ける事で、世界一の病床数の内、ほんの一部しか使えない事などが原因になっているとしか、自分には思えない。
普通の病院で、普通に診察し、普通に入院出来るようにすれば、それで一気に医療の逼迫は解決するのではないか。
 
事実、そう言っている医者も多いのだけれど、そう言う声は、どういう訳だか、テレビメディアには、なかなか取り上げられない。
そりゃ、もちろん、コロナを指定感染症から外すことには、マイナスの側面もあるのだとは思う。しかし、その説明を聞いても、そこまで深刻なマイナスポイントだとは、どうしても思えない。
少なくとも、繰り返しになるが、多くの人を経済的困窮に追い込んでも、やむなしとする程の、マイナスポイントとは到底思えない。
 
 
 
とまあ、色々と書いてきたけど、僕自身は、「正しいデータと事実に基づいた上での判断なのであれば、(明確に公序良俗に反しない限りは)、誰がどんな考えを持っていても、そのこと自体を否定すべきではない。」と思っている。
だから、ここまで書いた事の内、「客観的事実」の部分を踏まえた上で、それでも今の政策、対策が正しいと思うと言うのなら、(自分としては、その意見には反対だけど)、尊重はするし、「間違っている。」とは思わない。
 
例えば、いくら犠牲者数がインフルと同じであっても、特効薬等がない現状では、「感染しない」以外の防御策を取る事が出来ない訳で、その状況では、経済的に困窮する人が続出する現状もやむを得ないと思うと言うのなら、それはそれで「間違い」だとは思わない。
 
だけど、今、緊急事態宣言やオリンピックの中止に賛成している過半数を大きく超える人々が、本当にそこまで考えた上で、今の対策、やり方に賛成しているんだろうか?
 
もちろん、そう言う人もいるだろうけど、圧倒的多数は、データもしっかり見ず、「なんか感染者めっちゃ増えてる!」「なんか医療現場大変らしい!!」「じゃあ、命の方が大事だから、経済の犠牲は少しくらいしょうがないよね!」みたいな感覚か、もしくは時代の空気を読んで、とりあえず、賛成だと言っているに過ぎないのではないか・・・。
 
まあ、こんなデータを、国民一人一人に自分で調べろだなんてのは、無理がある話で、そのためにこそ、メディアと言うものがあるのだと思う。
自分には、メディアがその責任を全く果たしていないように見えて、そこに凄く腹が立つ。
 
「何も、コロナ騒ぎすぎだ!」キャンペーンを、テレビでやれと言ってる訳ではない。少なくとも、様々な客観的数値データ(コロナのデータも、インフルのデータも、経済的損失のデータも)を、しっかりと報道した上で、その上で、一人一人が考えられるような状況を作り出して欲しいと言うだけ。
 
その上で、世論の多数が、緊急事態宣言だとか、時短要請だとか、オリンピック中止を支持すると言うなら、それはもう、それで構わない。

ブログ初めてみました。

なんとなく、ブログ始めて見る事にしました。

実は、かなり昔、学生時代や社会人になってからもしばらくは、ブログやってた時期もあったんすよね。自分の思ってる事とかを、文章にしたりするのは割と好きな方だったし。

 

でも、社会人になってしばらくすると、やっぱり学生時代に比べて、時間もなくなってくるし、あとSNSが普及してくると、そっちで気軽に発信出来るようになって、次第に更新しなくなってました。

 

それが、何でまた、40手前にして、今更ブログ始めてみようと思ったかと言うと、副業に、ほんの少しだけ関心を持ったことがきっかけかな。

 

半年ちょっと前に、色々あって、転職したんだけど、その時、少々、年収落ちてるんですよね。ただでさえ、同年代の平均年収より、全然もらっていないのに(笑)

それでも、まあ、前職時代から減った分程度は、取り返していける自信は、それなりにありました。だけど、ここに来て、人生最大くらいに、いろいろ思うようにいってない部分もあって、それも怪しい雰囲気になって来ていて。

 

まあ、そんな事もあって、副業ってのが頭によぎったんだけど、まあ、そこは元来の面倒くささがり屋の性格が勝ちましてね。結局のところ、本業があるのに、その勤務時間外や休日に、そこまでの時間と労力を掛ける覚悟なんて、さらさらない訳ですよ。(笑)

 

ちょっとした隙間時間とかを、うまく利用して、月に2万円とかくらい、気軽に稼げないかな・・・みたいな。まあ世の中、なかなか、そんなに甘くない事は分かってますよ、ええ。

 

ちなみに、ブログで一定程度の広告収入得ようとすると、有料ブログに登録して、独自ドメイン取得して、Googleアドセンス?だかの審査をパスして・・・とかしないと、なかなか厳しいらしいですね。

ふ~ん・・・・・えっと、、、、めんどいです(笑)

しかも、それだけやっても、結局上手くいくかなんて分からない訳でね。

 

まあ、そんな訳で、自分は単純に趣味として、書きたい時に書きたい事を無料ブログで書いて、そこに無料ブログでも簡単に貼り付けらえる広告でも載せて運営してみようかなって思ってます。

まあ、それだと十中八九、小遣い程度にもならないでしょう。

でも、いいんですよ、だって、元々、リスクはゼロだし、趣味としてやってみようかなくらいなんですから。

だけど、、もし奇跡的に運がよく、このやり方でも小遣い程度は入って来るようになったら、その時は有料ブログに移行して、同じような方向性で、ちょっと本気だしたら、一定程度稼げる見込みがたったと言う事になると思うから、もしやってみるなら、その時でいいかなと。

 

まあ、そんな訳で、当ブログは、当面の間(と言うか、ずっとの可能性が高いけど)お気軽スタイルで行きますので、よろしくです。