科学的とは、どういう事か?
自分は昔から科学が大好きで、逆に非科学的なことを、平気でベラベラ話しているいる人間を見ると、イライラしてしまうタイプの人間だった。
では、「科学的」とはどう言う事なのか?
とある教授は「再現性」と「因果関係」がしっかりしている事だと言っていた。確かに、それもそうなのかもしれない。
そもそも「科学的」の定義は、一つには定まらないだろうし、科学的と非科学的の境界線自体、明確に示せるものではないだろうと思う。
しかし、その上で、自分の中で一番しっくりくる答えがある。それが、「科学(的)とは、反証可能なもの」と言うもの。
科学と相反する存在として、宗教がよく上げられるけど、例えば、進化論を否定するキリスト教原理主義者に、化石その他の進化論の証拠を突き付けると、こんな反論をしてくる。
「その化石自体が、神様がお作りになられたものなのです。」
いやはや、こんな事を言いだされたら、もう何でもありの世界で、反証は絶対に不可能だろう。だから、こう言うものは非科学的と言うことになる。
一方、科学的なものは、反例を一つでも示せば、それで反証は終わり。
どんな理論であっても、その反例を示し、その観測結果が確定出来れば、その理論は誤りであったとあっさりと認めるのが科学と言うものだ。
例えば、ニュートン力学は今でも、物理学の土台となる存在である事には変わりはないが、1900年代初頭から、だんだんとミクロの世界等々、人間が日常で体験する事のない環境下では、成り立たない事が分かってきた。これは当時の物理学者とっては、衝撃的な事だった。
当時、物理学は、もはや完成された学問だと言うのが、物理学者の一般的な認識だった。ニュートン力学を中心とした所謂、古典物理学(当時はもちろん古典物理なんて言葉はないが)において、残された謎は殆どなく、あとは精度を高めていくだけと言った空気感だった。
ところがその後、古典物理では説明できない現象(黒体輻射など)の発見をきっかけに量子力学や、あるいは相対性理論などの、所謂、現代物理学が発展して、それまでの物理学の常識を、根底からひっくり返す形で、急激に発展していった。
そこで導かれる結論は、それまでの物理学はおろか、人間の常識的感覚とも大きく異なり、ある意味で「信じがたい」ものであった。
しかし、論理として筋が通っており、何より、観測結果もその通りになる訳だから、事実と認めざるを得ない。
少し話がずれたが、何を言いたいかと言うと、反例があれば、これまで完全に確立されてきた理論すらも、修正を加えていくのが科学(的)と言う事だ。
オカルトの信者が、よく「科学者は頭が固い。」なんて言い方をするけど、自分に言わせれば大間違い。
反例一つあれば、あっさりと間違いを修正出来るのが、科学者と言うものだ。寧ろ、どんなに反例を突き付けれても、頑なに間違いを認めないのが、オカルト信者だろう。上記の進化論の否定論法が良い例だが。
小林よしのりのコロナ論、殆ど同感にも関わらず、感じる違和感
ずっと、コロナ禍は騒ぎすぎと主張している自分だけど、同様の主張をしている言論人の中で、恐らく最も声が大きいのが小林よしのりではないかと思う。
だけど、自分は小林よしのりのコロナ論には、どうも違和感を感じる部分が多い。
コロナ禍はインフォデミックであるとか、インフルエンザとの比較論とかは、殆ど同感なんだけど、例えば死生観に関する部分だとかは違和感を感じる事が多いし、所謂、確証バイアスに陥っていると感じる議論も多い(確証バイアスとは、自身の主張に都合の良い情報だけを無意識に集めてしまう心理現象のこと)。
また、マスクについても、確かにその感染予防効果は限定的であると思うけど、だからと言ってゼロではない訳で、特効薬等がない現状では、せめてもの気遣いとして、マスクをしておこうと言うのは、ごく自然な発想であると感じる。時短要請等のように、経済を犠牲にする訳でもない。にも関わらず、皆がマスクをしている現状そのものを批判的に語る事は、あまり理解出来ない。
その他にも違和感を感じる部分は、色々とあるのだが、今回、それが決定的になる事があった。
それは、一部の医者や議員などが、本日(2021年6月24日)開いた「新型コロナワクチン接種中止を求める嘆願書」提出に伴う記者会見を、自らのHPで積極的に、(どちらかと言えば、肯定的な色合いで)紹介している事。
(厳密には、小林よしのり本人ではなく、彼のアシスタント的な人物が、積極的に取り上げているのだが、小林よしのりのHPで、彼が認める形で紹介されているのだから、同じ事でしょう。)
確かに、今回のコロナワクチンは、従来の主だったワクチンとは製法等が異なるし、接種後の死亡例もインフルエンザワクチンと比べるとかなり多い事は、事実ではある。
だから、経過観察等は、これからも必要な段階だと思うし、打ちたくないと思う人が同調圧力で打たざるを得なくなるような、「接種が正義」みたいな空気感が醸成されることは自分も反対ではある。
とは言え、過剰にワクチンの危険性も煽る事も、当然ながらあってはならないでしょう。
では、今回の会見や嘆願書の内容は、どのようなものだったのか?あるいは、その主催者たちはどのような自分で、普段どのような主張をしているのか?
自分は医学に明るい訳ではないし、その内容一つ一つに、科学的に反論を加えるられる訳ではない。ただ、この嘆願書の発起人や、会見の主だった人物を調べてみて、驚いた。。
例えば、発起人の高橋徳氏。彼が院長を務めるクリニックのHPを見てみると、これが凄い。波動医学だの何だの、あからさまにトンデモ医学ではないかと思われる記述が堂々と掲載されている。
会見の主要人物の一人である中村篤史氏のブログも凄い。。コロナワクチンを打ったものは、全員2,3年で死亡すると言った主張が紹介されており、最終的な中村氏本人の結論は、それとは若干異なるものではあるものの、基本的にはそうした主張を肯定的なトーンで扱っている。
いやはや、二人ともトンデモ臭がプンプンとするのだが・・・。もちろんだからと言って、彼らの主張を全て間違いだと決めつけるのは科学的な態度ではないけれど、かなり警戒心を持って捉えるべきなのは、当然でしょう。
ちなみに、小林よしのりは、上記自分のHPで、今回の会見の主催者の事は、自分は何も知らないと言い放っていた。おいおい、それはいくら何でも無責任すぎるだろ。
彼は、コロナへの不安を過剰に煽る側の医師ばかりを、さしたる科学的根拠もなくメディアが取り上げる事に批判的だけど(そして、それは自分も同感だけど)、今、自分がやっている事は、それと同じだとは思わないんだろうか?
僕は、そういうダブルスタンダードが非常に嫌いである。
コロナ禍の捉え方の違いの背景にあるもの
だけど、コロナ禍に関する事については、単に考え方の違いと言うに留まらず、事実として、(飲食店や旅行業に限らず)凄まじい数の人々に、人生を狂わせるレベルの被害を与えている訳で、どうしても、色々と言いたくなってしまう部分があるんよね。
日本におけるコロナ禍は、本当にそれだけの事が正当化出来るだけの緊急事態なのか?って。
以下は、自分の主観で、ちゃんとデータを取った話ではないけど、こう言う事をやむを得ないと考えている人って、所謂「優秀で、仕事が出来て、エリートで、どちらかと言えばホワイトな職場にいて、高給取りで、コロナ禍は自身の給与には何の影響もない。」みたいな人が多い気がする。
(それとは別に、何も考えてなくて、雰囲気だけで、しょうがないんじゃない?って考えてる人もいると思うけど、、数としてはこっちの方が多そう)
では何故、「出来る人」は、そう考えがちなのか?
「自分自身には、コロナ禍の経済的影響がなく、変わらず豊かな生活をしてるから、苦しんでいる人に対する想像力が足りないんだよ。」とか言う人がいたりするけど、自分はちょっと違うと思うんだよなあ。
経済的に苦しんでる状況への想像力はあっても、自身に人並み以上の能力があるがゆえに、自分ならこの状況でも成功出来る、あるいは、失敗したところでいくらでもやり直せる自信があり、故に経済的に被害受ける人がいても、それは自己責任と考える傾向が強いように感じる。
また、やり直せば良いだけでしょ、みたいな。
けどね、世の中、そこまでの能力がある人なんて、全体から見たら、ごく一部。
コロナ禍により、一度狂わされたら人生は、その後、ずっと影を落とすかもしれない。
それすらも、その人の能力不足であり、自己責任なんだろうか?
確かに、一部の能力のある人なら、外部環境のせいで仕事を潰されても、何度も乗り越える事が出来るのかもしれない。
だったらやっぱり、乗り越えられないのは、その人の能力の問題で、自己責任じゃん!と言うのも、理屈としては成り立つ。
だけど、自分は、そう言う社会は嫌だなあ、、と思う次第である。
世の中は8割以上は凡人。上記の文脈の中で言えば、無能側の人間なのよ。(自分も含めてね)
そう言う人々に、過剰に自己責任を求める社会が、自分は健全なものだとは思えない。
宝くじと期待値、そして価値観
数学の確率の分野に期待値と言う考え方がある。簡単に言えば、例えば、宝くじを仮に全パターン買った際の1枚辺りの平均当選金額が期待値だ。
数学の問題では、「この宝くじを買うのは得か損か?」と言う問がよく出題される。要するに、宝くじの値段が期待値より安ければ得、高ければ損と言う訳だ。
しかし、自分はこの問題が、気に入らなかった。期待値はあくまで平均の話しであって、損する人もいれば、得する人もいる。
一般的な宝くじの場合、圧倒的多数は確かに損をするし、全体を平均すれば損をする事は間違いないけど、ごく一部の人が凄まじく得をする。
これを損と見るか得と見るかは価値観の問題であって、数学の範疇ではない。
だいたい、宝くじの値段が期待値より高いのは、商売である以上、当たり前の話しで、そうでない宝くじなんて基本的には存在しない。
数学の問題にするなら、この宝くじ販売で利益を得るには一枚の値段をいくら以上にすべきか?とかが妥当でしょう。
ちなみに自分は毎月3000円程度を宝くじに費やしている。基本、捨てるつもりで。
毎月、3000円を失っても、別にそれで生活レベルが落ちると言う事はない。
>毎月、3000円捨てる事で、ほんのほんの僅かでも、実力では到底得られないであろう、そして生活レベルどころか、人生すら変わるレベルの、億単位のお金が手に入る可能性を得られるのなら、それは自分にとっては「得」なのです。
ひろゆきが、宝くじを買うような人間は、自分は中学レベルの数学も理解していませんと言っているようなものと言っていたけど、全く納得出来ない。
まあ、ひろゆきみたいに元から億単位の収入とかがありそうな人の場合、宝くじが当たったところで、人生変わるわけでもないだろうから、魅力を感じないのは理解できるけど。
宝くじを買うことを、夢を買うとは、よく言ったものだと思う。そう、宝くじは庶民にとっての夢だ。
職域接種と同調圧力
このコロナ騒ぎ、いい加減にして欲しい。
ブログ初めてみました。
なんとなく、ブログ始めて見る事にしました。
実は、かなり昔、学生時代や社会人になってからもしばらくは、ブログやってた時期もあったんすよね。自分の思ってる事とかを、文章にしたりするのは割と好きな方だったし。
でも、社会人になってしばらくすると、やっぱり学生時代に比べて、時間もなくなってくるし、あとSNSが普及してくると、そっちで気軽に発信出来るようになって、次第に更新しなくなってました。
それが、何でまた、40手前にして、今更ブログ始めてみようと思ったかと言うと、副業に、ほんの少しだけ関心を持ったことがきっかけかな。
半年ちょっと前に、色々あって、転職したんだけど、その時、少々、年収落ちてるんですよね。ただでさえ、同年代の平均年収より、全然もらっていないのに(笑)
それでも、まあ、前職時代から減った分程度は、取り返していける自信は、それなりにありました。だけど、ここに来て、人生最大くらいに、いろいろ思うようにいってない部分もあって、それも怪しい雰囲気になって来ていて。
まあ、そんな事もあって、副業ってのが頭によぎったんだけど、まあ、そこは元来の面倒くささがり屋の性格が勝ちましてね。結局のところ、本業があるのに、その勤務時間外や休日に、そこまでの時間と労力を掛ける覚悟なんて、さらさらない訳ですよ。(笑)
ちょっとした隙間時間とかを、うまく利用して、月に2万円とかくらい、気軽に稼げないかな・・・みたいな。まあ世の中、なかなか、そんなに甘くない事は分かってますよ、ええ。
ちなみに、ブログで一定程度の広告収入得ようとすると、有料ブログに登録して、独自ドメイン取得して、Googleアドセンス?だかの審査をパスして・・・とかしないと、なかなか厳しいらしいですね。
ふ~ん・・・・・えっと、、、、めんどいです(笑)
しかも、それだけやっても、結局上手くいくかなんて分からない訳でね。
まあ、そんな訳で、自分は単純に趣味として、書きたい時に書きたい事を無料ブログで書いて、そこに無料ブログでも簡単に貼り付けらえる広告でも載せて運営してみようかなって思ってます。
まあ、それだと十中八九、小遣い程度にもならないでしょう。
でも、いいんですよ、だって、元々、リスクはゼロだし、趣味としてやってみようかなくらいなんですから。
だけど、、もし奇跡的に運がよく、このやり方でも小遣い程度は入って来るようになったら、その時は有料ブログに移行して、同じような方向性で、ちょっと本気だしたら、一定程度稼げる見込みがたったと言う事になると思うから、もしやってみるなら、その時でいいかなと。
まあ、そんな訳で、当ブログは、当面の間(と言うか、ずっとの可能性が高いけど)お気軽スタイルで行きますので、よろしくです。